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2010年01月17日

史上最多全19戦の長丁場、2010年シーズンもよろしく!

寒中お見舞い申し上げます。
5年ぶりに史上最多全19戦が開催される2010年、長いシーズンとなりますが取材活動に励みながら、現場で見たこと、聞いたこと、感じたことなどを率直にお伝えしていくつもりです。F1 LOVERS皆さんのサポート、叱咤激励、ご意見など、よろしくお願いします。

正月は4日から“初荷”原稿を書き始め、10日には富士スピードウェイ「スーパー・ママチャリ7時間耐久レース」で“ゲスト解説”をやってきました。今年もサーキット取材は真冬のこのイベントからスタート。1300チーム、約2万人が広いパドックを埋め尽くし、思い切りマイペースでコースを走る姿はたとえママチャリであっても<モータースポーツの原点>を見る思いがしました。普段サーキットに縁がない人々にも存在を知ってもらい、また筋肉痛とともに富士自走の“思い出”を周囲の友人や同僚、仲間とわいわい語り合うことによってもっとサーキットが身近なものになっていくと思うからです。

参加チーム名にはF1コンストラクターをもじった名称が多く、中には見覚えあるレーシングスーツ姿、レプリカ・ヘルメットで走る“ママチャリスト”も大勢いました。「カムイがんばってほしいです」、「シューマッハにもまた優勝争いしてもらいたい」、「佐藤琢磨選手にも最後までF1復帰目指してがんばってもらいたい」などなど、何人もの人から声をかけられました。メーカーは次々に撤退してもファンは撤退せず……、元気をもらった一日でした。

その小林可夢偉君には12日に、僕も70年代から所属しているJMS(日本モータースポーツ記者会)のパーティーで会い、新春雑談プライベートトーク(?)の機会がありました。彼は「2009年JMSアワード」を受賞、わざわざ寒波のパリから戻ってきてくれたのです。当分の間は現在のパリ住まいのまま過ごすこと、ザウバーとはうまくいっていてTMG時代の知り合いもいること、2月の15日間テストは半分を担当すること。またその進め方などについて彼の考え方を聞き、僕も僕なりに意見を言ったりして、次にサーキットで会う時には“ザウバー色”に染まっているのを期待しているからと、激励して別れました。周囲からのプレッシャーが日増しに大きくなっていても彼は自然体で受け止めていて、いままで同様のライフスタイルに変わりはなく、それを感じて少し安心した次第です。

さて昨年から企画中の「第10回今宮純クロストーク・ミーティング」は、3月7日(日曜日)に東京で開催することが決まりました。
開幕戦3月14日バーレーンGPの前の週、まさに直前です。現地に出発する前にF1LOVERSの皆さんと一緒に、2010年の見どころ、展望など語りつくして旅立つことになります。スペシャルゲスト、イベント詳細内容などはまだ検討中ですが近々参加申し込みなど発表できると思います。
春爛漫、開幕直前の3月7日、いまからスケジュールを空けておいてください。

2009年12月19日

新ポイント制度の採用で、来季は何と10位までが入賞!

今年、最後になる世界モータースポーツ評議会で<2010年F1世界選手権ポイント制度>の一新が急に決まった。09年の現行制度、8位までを入賞としポイントは1位10点、2位8点、3位6点、4位5点、5位4点、6位3、7位2点、8位1点は03年から継続されてきていて、その前は6位まで入賞の10-6-4-3-2-1点が91年から続いていた(それ以前は61年から30年に渡って9-6-4-3-2-1点)。
今回発表されたのは10位までを入賞とする、25―20-15―10-8-6-5-3-2-1という「ポインばらまきシステム」だ。これはまたまた重大なルール変更といわざるを得ない。なぜならば3位までの配点率が2.5倍に増えているのに対し、4位から6位までは逆に2倍に低くされ、8位はなんと3倍増になっている。かなりアンバランスだという印象は拭えない。
9、10位まで入賞としたのは、チーム数が13に増えたから新興小チームにも“入賞アピール効果”のチャンスを与えるためだというが、それは一見正論のようでも、これによっていろいろなケースが起こることは容易に想像できる。

例えばもし最終戦で“僅差”のチャンピオン争いになった場合、10位でも1点ゲットできるとなればハードルはぐんと低くなり、1点狙いだけ意識した“とろとろレース”でもOKということになる。昔の6位まで、いまの8位までを入賞とするポイント制度よりも、可能性としてもっとこうしたケースが増えてくることが考えられるのだ。

個々のレースでいえば上位3台は25-20-15点を獲得できることがとても大きい。もし開幕から速い2チームが現れた場合、上位大量得点がいままでよりさらに可能になるので、彼らが1~4位までを独占し続けてしまうと、追いかけるチームはものすごいハンデをいきなり背負うことになり、中盤以降の挽回が一層難しいものになる。
例えばそれを09年シーズンに当てはめてみると、選手権を制したJ・バトンと2位のS・ベッテルは、243点と197点となり“50点”もの大差がついてしまい、当然タイトル争いも早々と決してしまう可能性もある。新王者のバトンがFIAの発表に対して「この新ルールは大歓迎」と述べているが、それは09年の自分に当てはめた感想だろうことは、容易に察しがつく(自分が逆の立場になったらとは、なかなか考えないものだから)。

前述したように4、5、6位だけが配点率を低くされたため、<3番目に速いチーム>
は先行する2強チーム4台に付け入るチャンスは小さくなる。どこが10年シーズンに抜きん出てくるかはさておき、トップ4バトル、三つ巴戦というよりも“2強対決図式”が強まることは間違いなさそうだ。我々とすれば最後まで多数勢力がもつれ合うような展開が見たいのだが。

もちろん過去のポイントに関する記録も比較対照しにくくなるし、細かなことだがドライバー契約での獲得ポイントにまつわるパフォーマンス条項も書き換えなければならないだろう。チーム内でいえばメカニックのボーナスも1点何ポンドと決めているところも多いので、仮に1点1000ポンドだったとしたら4分の一くらいに減額されるかもしれない…(ああ、ややこしい)。

個人的にはどうしても10位までポイントをばらまきたいのなら、20-15-12-10-8-6-4-3-2-1点が妥当だと思う。実際これは、以前耐久レースなどで実施されていたポイント制度だ。優勝の価値を認めつつ2位とは最大5点差をつけ、3位には表彰台入りの名誉は与えても4位以下との差は小さくする。こうすれば仮にある1チームが1-2を飾っても次のレース以降で別の複数のチームが追い上げれば、長期シリーズがもつれる度合いは高まるだろう。
 
2005年以来5年ぶりに史上最大19戦に膨れ上がる来シーズン、ドライバーズチャンピオンは<475点満点>で争うことになるが、たとえ300点突破王者が誕生したとしても、その真価は04年の王者M・シューマッハが獲得した148点とは直接比べられないことになる。それにしてもワールドレベル・スポーツで、10位まで入賞の名誉を授ける競技がほかにあるだろうか――。
 

2009年11月29日

トヨタF1最後の日に、日本の「F1力」のことを思った。

トヨタと富士スピードウェイには我々も長くお世話になってきた。その感謝の意を表し、ここで公式的にF1が走る最後の場になるであろう「トヨタ モータースポーツ フェスティバル 2009(TMSF)」(11月22日)に、前日から2日間かけて赴いた。僕の09年最初のサーキット取材(1月ママチャリGP)も最後もここ、綺麗に白化粧したマウントフジを年に2度も眺めることができた。最終戦アブダビ帰りの自分としてはあらためてこのサーキットが持つ雄大さを感じたのだった。

夜は1℃で寒さに震えたけれど天気予報を覆して雨は御殿場あたりで止まり、22日イベント当日午後には晴れ間も出た。早朝から8時間も延々続いたイベントは正直言ってやや長すぎたがスタンドのファン2万8000人(公式発表)は最後まで楽しんでいたようだ。パドックでサインや写真撮影を頼まれたが中には、07年新富士・日本GPの公式プログラムをわざわざ持ってきた方もいて、彼らの“熱気”を感じた。

渋滞を避けルート246から小田厚経由、東名での帰り道で驚いたのは、明らかに富士帰りの地方ナンバーのトヨタ車が多かったことだ。皆さん全国からこの<トヨタF1最後の日>のために駆けつけたのだろう。何度か行ったこのイベントでこれほど見かけたことはない。僕は豊田社長にこういうところを、またあえて言えばホンダのI社長にも是非ご覧になっていただきたかった。
社内報告書データには上がってこない「庶民モータースポーツ感覚」の広がり。ボクシーやウイッシュに、誇らしげにTOYOTA・F1スティッカーを張っているワンボックスカーの若いお父さんたち……。トヨタは販売戦略として彼らを狙い、F1モータースポーツをやってこられたのではないのか。02年から8年かけてやっとここまできたのにそれがとても残念だ。

土曜21日に豊田社長がサーキットランを終えて、まるで小林カムイ少年のような笑顔でレキサス・マシンから降りてくるところを偶然目撃した。世界一速い社長の“素顔”だ。こんなにお好きな人があの決断をせざるを得なかった背景をもういっぺんよく考える必要があるだろう。
辞めるのではなく、辞めさせられたのではないのか――。

小林可夢偉君は金曜深夜までフジTV「スポルト」に生出演、その後、車で山中湖の宿に深夜移動。24時間営業コンビニを探しカツサンドを買い、食べてすぐにちょっとだけ寝て、朝からイベントリハーサルへ。相変わらず忙しい。J・トゥルーリもアメリカから土曜夜に成田到着、そのまま山中湖に入り、このトヨタF1ラストランに臨んだ。5年間苦楽をともにした彼としてはけじめをつけたかったのだろう。大会最後のフィナーレで最後までスタンドのファンに手を振り続ける彼の表情は感極まっていた。
もう一人のトヨタF1ドライバー、T・グロックはこのイベントにも来ていなかった。彼は17日に新チームのマノーと契約を発表、待ちきれずに決めてしまった感がある。ここは元シムテックで革新的マシンを設計したN・ワースが参戦準備を進めていて、彼ならば新興チームでベストなモノを作り出せると思う。が、資金力はショート気味でグロック自身がスポンサーを集めないと苦しい状況にある。もしそれがうまくいかないと、契約したとはいえグロックの立場が危うくなる可能性もありえよう。

小林と中嶋一貴の二人は“TDPマネージメント”の下にいて、2010年に向けて早い段階から水面下で担当者が交渉を重ねてきた。20日時点と断っておくが、事態はアブダビGP後からトヨタ撤退後に4転5転もしてきた。もう可能性はゼロになったが小林はマクラ―レンの候補リストに日本人として初めて名を連ねていた。検討が進み、チーム・スポンサー各社がアジアマーケットを調査、名門は慎重にリサーチをしていたのだが、J・バトン電撃移籍加入によって小林は弾かれた。世界があっと驚くマクラーレン日本人起用のかすかな可能性は消滅したのだった。

このTMSFイベント中に、あるフランス人に僕は初めて声をかけられた。実は彼の国のチームが小林に興味を示している。R・クビサは決定済みで、もう一人はグロックという報道が流れたがマノーに決まったのでシートが一つ空いたのである。そのシートに最近になってロシア系新人の動きが流れたのだが、R・グロジャンで懲りたルノーがまた実績のない新鋭起用に積極的になるとは思えない。その一方でルノーは資金体制面がまだ固まっていない。つまり、チーム・スポンサー交渉とリンクするようなドライバーが望ましい状況というわけだが、もし実績を示した小林に何らかの“サポート”があれば、彼の国のチームの候補リストの上位に一気に浮上していくのではないだろうか。

新興チームにはさまざまなドライバーの名が出ている。
カンポスはまずB・セナを10月31日に契約発表した。だが、有力候補P・デ・ラ・ロサがここにきて落ちたのは資金面がショートしたためで、事態はかなり変わってきている。ブラジル資金を当て込んだセナ起用も思惑が外れ、ドライバーラインナップが再検討されるかもしれない情勢にある。

一方、資金力はあるのが“マレーシア・ロータス”。M・ガスコインがマシン製作の指揮を取っていて、一人は確定したと報じられているのに名前が出てこない。トゥルーリだと書きまくるイギリス・メディアに対して、本人は「まだどことも契約に至ってはいない」と否定。ここに佐藤琢磨、中嶋らが候補として入り、他の新鋭や、経験者たちと“競合関係”にある。アメリカのUS・F1はチーム基盤が不透明なままで、具体的なドライバー交渉動向もはっきりしてなく、日本勢もよく見極めたほうがいいだろう。
 同様に不透明なのが元BMWのザウバー。FIAからエントリー承認を得られず、トヨタ撤退後に本来なら繰り上がって、着々と体制が進行していていてもおかしくないのに見えてこないのはなぜか。N・ハイドフェルドは長年の関係から確定でも、もうひとつのシートは“空白”だ。

創造力をたくましく“ドリームプラン”を考えてみようか。一切しがらみは抜きにして、もしザウバーとTMG、撤退したメーカーBMWとトヨタに代わりこの彼らが“合体”したとしたら……。
このプラン詳細は次回に続くとさせてもらう。もしこの間、明日にでもあっと驚くニュースが流れてもおかしくない今のF1ストーブリーグ界、小林も中嶋も、もちろん琢磨も3人とも僕はサポートしていく。何もしてやれないが彼らの夢の続きをバックアップする。たとえメーカーは消えても日本人の「F1力」は世界に負けてはいないのだから。


2009年11月13日

トヨタもBSも現場スタッフは心で泣いたアブダビ最終戦

みんな顔で笑って心は泣いていた――。最終戦アブダビGPの現場に居たBSスタッフ、またトヨタ(TMG)スタッフは<決断の時>が来たことをかみ締めながらも、それを心の奥底に閉じ込めながら09年最後の仕事に集中しようとしていた。

現場でのことを伝えよう。
11月1日、午前11時からトヨタ・チームは僕が泊まっていたホテルのすぐ隣にあるホテル内ペルシャ料理店で、取材関係者を招いて“ブランチの集い”を開いた。ドライバーは来ず、日本人チーム首脳陣と本社モータースポーツ推進室員だけが顔を揃え、今シーズンの取材御礼の挨拶が述べられたが、それ以上来季にまつわる話は一切出なかった。つまり彼らは何も言えないし、この場では何も聞いてくれるなということだと、僕は受け取った。
「やっぱりそうか――」。当たり障りのない雑談時間だけが流れる中で、食欲など出るはずもなかったが、半徹夜になる決勝日だから少しでも食べておかなければと小さなオムレツとクロワッサンを一つ摘んだだけで、もうサーキットへ行かなければと、照り付ける35℃の日差しを浴びながら車で5分のヤスマリーナ・サーキットに向かった。

午後1時からはパドックのBSチームオフィス内で浜島氏によるいつもの“タイヤトーク・セッション”が始まった。毎戦金曜と日曜に2度行われるもので、主にデータ確認とQ&Aがあって15分程度で終わる。この日も全くいつもどおりにミーティングは進み、散会した。しかしこの日の昼(レーススタートは夕方5時)にBS首脳スタッフは全チームに出向き、現行タイヤ供給契約を10年まで全うしたあと、次の契約はしない旨を伝えていたという。もちろんこの段階ではシークレットだが、BS首脳が直接出向いて現場担当者に話すのは、この世界にいるものとしての礼儀であり、モータースポーツマンとしては当然の振る舞いだと思う。

スタートまでの時間がとても長く感じられた。
資料整理やいろいろデータチェックしながらも、トヨタとBSの2010年に関して、ひいては<日本の将来F1アクティビティー>に向けて、最終戦のCS生中継で何を言うべきか、何を言うべきではないか、自問自答を繰り返したが、結局、いつものようにレースに徹したスタンスでいくことに決めた(まだ何も正式には発表されていないのだから)。たぶん来週一気にすべてが明るみに出て日本国内で大騒ぎになるだろうが、今この時点でことさら“スクープ”にはやり、テレビでぺらぺらしゃべるのは控えよう。それが僕の下した結論だった。

チャンピオン決定後ではあっても面白いレースが快走L・ハミルトンによって始まり、S・ベッテルが渾身のドライビングで食い下がって逆転、何とか新王者J・バトンもM・ウェバーと終盤に見せ場を演じながら、09年シーズンにふさわしい顔ぶれ3人が表彰台に立った。まあこれはこれでよしとしよう。

戦い終えて日が暮れて、取材を終えた最後にパドック一番奥にあるBSを個人的に尋ねた。今年最後だからあらためて「お疲れさま」というのがマナーだろう。仕事中だったのに浜島氏が一人で合間を縫って出てきてくれて、いくつか雑談話をしていると急に彼が涙ぐんだ様子でF1参戦からの昔話をし始めた。こちらはそういうつもりはなかったのだが、この日のレースのこととは関係なく、ミシュランとの“タイヤ戦争”やマイケル・シューマッハがいた時代に話題が飛んでいった。
「誰にも最終戦って、いろいろ頭をよぎることがあるよね」
BS社内で次期F1契約更新が難しい状況にきているのは、自分なりに感触は得ていた(関係者に迷惑をかけてはいけないので、あくまでもこれは“個人的な判断に基づいた感触”と断っておくが)。その通り彼らは来季シーズン、新たなタイヤレギュレーションに則った10年用タイヤを開発し、1年間規定に従った活動したうえでF1を去るという手順を踏んだ撤退であることを発表した。

一方トヨタ社内情勢はもっとずっと複雑なようだった。内外でさまざまな撤退報道が繰り返されるたびに、むしろ現場スタッフ側は結束力を強め、TMG海外部隊はやる気に燃えていたように僕には見えた。実際にいいレースが続きシンガポールGPではT・グロックが2位、日本GPでもJ・トゥルーリが2位と結果にはっきり現れ、ブラジルGPでは抜擢されたルーキー小林可夢偉が大健闘9位(日本人歴代2位タイ記録)、参戦8年目で初めて日本人ドライバーが戦う日本の“トヨタF1”の存在がアピールされた。
しかし、もう時既に遅しだった――。
表現はよくないかもしれないが、2戦目の小林の表情は“神風特攻隊員”さながらだった。口数も少なくなって、常に思いつめていた。
「人生がこれで決まる、いや終わるかもしれない」。
英国艦隊の最強戦艦ブラウン・バトンに駆逐艦豊田で挑んでいったコバヤシ、失礼を承知で言わせてもらえば力が違いすぎる相手である。それでも彼はお国(トヨタ帝国)のために捨て身で出撃していった。出撃できる機会を現場の司令長官が設けてくれたからには、それに報い自分の未来をこの一瞬に賭けるしかなかった。
「あまり無理はするなよ」とは戦士に向かって言う言葉ではない。ブラジルGPで彼が9位で“生還”したとき、僕は「オツカレサマデシタ」というねぎらいの言葉を本人にかけるのがやっとだった。すると朗らかに笑うコバヤシは「ここで待っていてくださいね、僕、コーヒーをいれて持ってきますから」と、ホスピタリティーの女性に命令せずわざわざ自分で運んできてくれた。敬礼しながら僕はいただいた。
アブダビでは夕飯をまともに食べる時間さえ彼にはなかったことを知っている。新人の彼は土曜夜9時からのプロモーションイベントにまで引きずり回され、アスリートとしての節制など心がける暇もなかった。出撃前夜の特攻隊員に礼を尽くさず、見事敵艦轟沈してからよくやったと肩を叩かれ、挙句に「もう帝国は無条件降伏したからね」と言われたら、二等兵は無念さを飲み込み押し黙るしかないだろう。

現場指揮官はアブダビ直後に開かれた東京の「撤退記者会見」で涙したらしい。僕はまだアブダビ取材から戻れずヨーロッパに居て会場内の状況は知らないが、そのシーンは世界中のTVニュースに流れた。しかし、トヨタF1関連の話題が02年の参戦以降、これほど国際的なビッグニュースになったのは、若き日本人ドライバーに“カミカゼ攻撃”させながら、2010年新コンコルド協定に調印しながら、ここで<無条件降伏>した“大日本クルマ帝国”の判断に、世界のメディアがマカ不可思議なものを感じ取ったからに他ならないということを忘れてはならない。

100年の自動車産業史に燦然と輝く世界一の企業が8年間、フェラーリ以上の数千億円を浪費しながらも1勝すらできなかったという事実を、日本のマスコミは「昨今の経済事情悪化」を理由に“金食い虫のF1活動は辞める”という彼らの文言だけを鵜呑みにせずに、しっかりと報じるべきだ。
あれだけの予算があればトヨタはとっくにワールドチャンピオンになってしかるべきであり、勝てなかった5年で辞めるか、ほかの選択肢を選ぶべきだった。
モータースポーツに「改善主義」は通用しない。必要なのはその都度の思い切った「改革」である。140戦して1勝もできず、中途半端に無条件降伏したトヨタは、自動車メーカーとして歴史にその名を永遠にとどめるだろう。
それがとても悔しい。1年前のH社敗退のときよりもっとニッポンは恥をかいた。

2009年10月27日

ブラジルGPは静かなチャンピオン決定戦だった。

朝からサンバのリズムが鳴り響いていたインテルラゴス・サーキッット。すでに皆さんもご存知のように、ブラウンGPのJ・バトンが5位に入り、初のワールドチャンピオンに輝いている。だが終わってみれば、もの静かなチャンピオン決定戦だった。歓喜も、喝采も、現場にいた僕の耳には届いてこなかった。放送席から出て1コーナー・ブリッジを渡ってパドックに戻ろうとした時、さっきまでスタンドで騒いでいた観客が忽然と消え、一人もいなくなっていた。彼らが放り投げたシートクッションだけがコース上に散乱、喧騒の後を留めていた。1時間後、ぱらぱらと雨が落ちてきてインテルラゴスはひんやりとした空気で満たされた。そう、こういう冷たい終わり方こそ2009年には最もふさわしいのかもしれない……。

まずレースを振り返ってみよう。
第16戦ブラジルGPまでを真っ二つに割って、その前期後期の得点バランスを表すとこうなる(第1戦から第8戦までと、第9戦から第16戦までの合計点)。

1位:Jバトン     64+25=89点
2位:S・ベッテル   39+35=74点
3位:R・バリチェロ  41+31=72点
4位:M・ウェバー  35,5+26=61,5点
5位:L・ハミルトン   9+40=49点
6位:K・ライコネン  10+38=48点

トップ4人はいずれも後半戦で得点が低下、後半8戦で言えば1位のL・ハミルトンが40点、2位のK・ライコネンが38点で、二人の得点がトップ4を上回り、旧2強チームの二人が1位、2位で大逆転になる。チャンピオンのバトンの後半戦は6番目の得点でしかなく、8戦で25点は1戦平均で約3点、6位入賞がやっとだったことになる。
バトンだけではない。チャンピオンシップコンテンダーたるS・ベッテルもR・バリチェロもM・ウェバーも、後半戦揃って得点率が落ちている。こういうシーズンは極めて珍しい。夏から秋へとチャンピオンシップが深まれば深まるほどヒートアップしていくのがこのスポーツの面白さなのに、今年は真逆でトップ4全員が前半よりも成績を下げていった……(クールダウンか?)。

1950年から数えて60回目シーズン、昨年のハミルトンと同じ5位入賞によってバトンが31人目の王者になった。彼だけでなくタイトルを争ってきたベッテルもバリチェロも“決定戦”表彰台に立てなかったのは、極めて異例なことで、ほかのスポーツではありえないようなファイナルゲームの結果だといわざるを得ない。
要はトップ4が揃いも揃って得点を伸ばせなかった後半、その中で彼と彼のチームが一番巧く“ポイント・マネージメントレース”をまっとうしたということだ。2009年の勝負はそこだった。しかし、生涯初のタイトルをこんな風に決めたジェンソンに2度、3度と、こうした成功が望めるだろうか。僕はこういうシーズン展開はそう何度もないと思うのだが。
「この至上の喜びをまた握り締めたい、誰にもこのタイトルを渡したくない!」
初制覇した後の新王者からはそうした前向きで力強い感想など聞かれなかった。優勝祝賀パーティーをさっさと切り上げ、一人ホテルの部屋から彼女に長距離電話する彼は本当に素直でいいヒト、歴代ワールドチャンピオンの中で彼ほど「心優しい王者」もいない。

最終戦アブダビGPでバトンがどういうレースをして見せてくれるか、チャンピオンとしてぼろぼろのレースはいただけない。もし素晴らしいレースをして見せてくれたら、それがタイトルプレッシャーにおののいていた“逆証明”にもなる。新王者には今年最後の勇敢なレースを望みたい。

P.S.
今宮純クロストーク・ミーティングのフレンドリーゲストとして、毎回出演してくれている“BSの浜ちゃん”こと浜島浜島裕英(株)ブリヂストン MS・MCタイヤ開発本部長が案内役を買って出てくれ、11月15日(日)に同社のタイヤとモータースポーツの展示館『ブリヂストンTODAY』(東京都小平市)の見学バスツアーを行なうことになりました。興味のある方は、下記案内ページをご覧の上、ご参加下さい。

■浜島さんと一緒に回る「ブリヂストンTODAY」見学バスツアー
 http://www.f1world.jp/

2009年10月23日

シンガポール~鈴鹿2連戦は、F1史上最も過酷な毎日だった Part2

鈴鹿は今のシルバーストーンによく似ている。高速コーナーが次々に連なっていて、平均スピードも時速230キロでほぼ等しく、ドライバーにとって攻める“リズム”が一緒だ。そう感じ取れればマシンセットアップのベースもおのずと決まってくる。あとは若干、鈴鹿向きにモディファイを加えればいい。

今年の第8戦イギリスGPでJ・バトンの連勝を止めたのはS・ベッテル。彼のレッドブルは完璧にシルバーストーンにフィットし、無敵のPPウイン・最速ラップで突っ走った。あまりの速さにバトンとR・ブラウン代表はショックを受け、あそこから“スランプ状態”に落ちていったのは皆さんよくご存知だろう。

僕が早い段階から今年3年ぶりとなる鈴鹿・日本GPの本命にベッテルを指名したのは単なる“マイ・カンピューター”の導き出した答なのだが、そのカンピューターには長年F1を見続けてきた経験値が蓄積されており、そこから客観的に弾き出されたものに過ぎない。だから、根拠は何かといわれれば、自分の経験に裏打ちされた目で見た結果と答える以外にないのだが、その僕の目に、鈴鹿初日時点で「ここでは勝負にならない」とバトンもR・ブラウン代表も消極的になっていった様子が、よく分かった。

例えばコース脇で見ていると、バトンは心理状態が読みやすいタイプのドライバーで、何が何でも行くぞというときにはコクピットでヘルメットが自然と前傾姿勢になってくる。そうでもないときは(マシンが決まらないときなど)、後ろ寄りというか頭の位置が前のめりになってこないのだが、この鈴鹿で見たバトンには何が何でもの前傾姿勢が、残念ながら見られなかった。君子は危うい勝負には出ないもの。ドライバーの性格として、また策士エンジニアの性格としても、両者は鈴鹿で決めるにはリスクが高すぎると思い、最低限入賞さえできればいいと悟ったのだろう。

その結果、予選10位、決勝8位でバトンは1点加算。予選PP、全周回トップで優勝したベッテルは満点の10点。10-1=9点減らしただけのバトンは85対69点で鈴鹿を流して済ませたのだ。
「ここ鈴鹿で決める気はなかったんだ」と強気に公言してみせたポイントリーダーに対し、ベッテルは「鈴鹿は最高のコース、神の手で作られたサーキットだ」と名言を吐いた。まるで昔、「鈴鹿で神を見た」と発言したA・セナのような形容である。そんなコメントと圧倒的な速さに魅せられたのだろうか、日増しに鈴鹿でベッテル・ファンが増えていくのが自分にも感じられた。逆にホンダ時代からのバトン・ファンは醒めていき、誰がいま一番コース上で速いのか、攻めに徹しているのか、ポイント数ではない<現実の最速者>を目の当たりにしたいと思っていたファンの多くを失望させてしまった。

正直言ってバトンがもう少し鈴鹿・日本GPにこだわり、敵が速いのは承知の上でプライドをどこかで見せてくれるたら……。そう思う一方で、彼はそういうがむしゃらな走り、一か八か切り込んでいく勝負を、カートレースの少年時代からとても嫌うドライバーだったということも頭をよぎる。
それはタイトル目前のここまできても変わりはなかった。
「きっとジェンソンはブラジルでもまた“彼らしい”レースを貫き、しかしそこでもし決められなかったら、最終戦アブダビではとんでもない結末になる――。」
初めてのタイトルだからこそ守って獲るべきではなく、最後は何が何でも攻めて獲りに行かなくてはならない。鈴鹿からの帰り道、東名集中工事のために8時間もかかった車内で僕はいろいろ考えさせられたのだった。
<終わり>

2009年10月13日

シンガポール~鈴鹿2連戦は、F1史上最も過酷な毎日だった。

今年、このシンガポールGPと鈴鹿・日本GPの2連戦の日程が発表されたとき、かつてないハードスケジュールに間違いなく“病人”が出ると思ったら案の定、J・トゥルーリとT・グロック(よりによってトヨタ・チーム二人)がそうなった。彼らを責める気は毛頭ないがアスリートとして僕らよりも十分注意し、専任ドクターやトレーナーを随行させていても体調を崩してしまうほど、きつかったということをあらためて知ってほしい。ほんと、この2連戦はF1史上最も過酷な毎日だった。

だからこそ若い24歳のL・ハミルトン(マクラーレン)がシンガポールGPを、22歳のS・ベッテル(レッドブル)が日本GPを颯爽と走り勝ってしまったといったら、「何だそうだったのか?」と言われるかもしれない。実際にタイトルをほぼ確定していた29歳、J・バトン(ブラウンGP)は二人に比べれば(アスリート年齢的には掛ける1.5倍で)10歳以上、年上になる。さらにバトンには、チャンピオンシップへのプレッシャーや疲れもあったはずだ。はなからベストには程遠い状態だった彼は、あるいは日本は流し、次に勝負をかけようと思っていたのかもしれない。そういう意味で、この2連戦を総括すると<若さの勝利>とも言えるだろう。

誰もあまり指摘しないがアスリートにとって、これほどコンディショニング調整が理論的に成り立たない競技も珍しい。各国時差はもちろん、その移動距離、現地気候の違いなど、ほかのプロスポーツではありえないほど、F1は転戦の連続だ。シンガポールで2回目の開催となったナイトレースの現場では、金曜日からずっと“徹夜”態勢の深夜労働が続いた。ドライバーもミーティングなどあって、わざわざ調整のために夜更かしをして“不健康な”生活を送っていた者もいる。その次の日本GPが昨年のように2週間後ならば“調整期間”がたっぷりあるからそれでもよかったのだが、今年は連戦で鈴鹿へ移動しなければならない。

シンガポールで深夜時間(ヨーロッパ昼時間)に合わせた直後、ヨーロッパと7時間時差になる日本タイムに一気に合わせなければならない、昼夜逆転だ。しかもそこに5000Km以上の飛行機移動時間がある。たまたま僕はシンガポールから成田までバトン、ハミルトン、ベッテル、K・ライコネン(フェラーリ)らと一緒のJAL便になった。月曜夜の夜行フライトで出発は10時40分、成田到着は火曜朝6時35分で正味6時間55分だ。僕は機内食も酒類もノーサンクスで寝ることにした。でも、昨日までこの夜中時間帯にサーキットで真昼のごとく仕事をしていたわけだから、いざ眠ろうとしても眠れるものではない。うとうとした程度で成田着陸だ。そこから彼らがどうしたかは分からないが、僕はとっとと東京の家に戻って仮眠、でも原稿が気になってなかなか休めない。仕方なく起き上がって原稿に向かい、結局深夜までかかってしまった。

結局、自宅滞在時間は30時間ほど。翌日、水曜午後には再度荷造りをして、自分の車で鈴鹿に向け出発。ところがこういうときに限って東名の厚木で事故が発生し渋滞に。ウェットコンディションの中、ノーストップで鈴鹿に着いたのは夜10時、すぐになじみの店に電話をしたら「もう閉店しました」と言われてがっくり。仕方ないのでホテルの自動販売機のビールでも飲んで寝ようと決める。この夜“爆睡”しておかないとゆっくり寝る時間はもうないと思い、ベッドに転がりこんだ鈴鹿ファーストナイト。3年ぶりに泊まるホテルの寝心地は、以前と何も変わりはなかった。

<続く>

2009年09月30日

特別寄稿 ルノーの2年間猶予付き資格停止処分について

大いに意義ありの幕引きだった。
史上初の夜間開催となった昨年のシンガポールGP決勝、ルノー・チームのN・ピケJr.がレース中に起したクラッシュについて、8月にチームを解雇されたピケがFIA(国際自動車連盟)に事故は故意だったと告白。同僚のF・アロンソが絶好のタイミングでセーフティーカーが入ったことで優勝したことから、チームの意図的な不正行為が疑われた問題について、9月21日に開かれた世界モータースポーツ評議会は、わずか90分足らずの“審議”でルノー・チームには執行猶予付の「2年間出場停止処分」、前マネージングディレクターのF・ブリアト―レ氏にはFIAが関与する競技からの「無期限追放」、不正行為を指示したと言われる前エクゼクティブディレクター・オブ・エンジニアリングのP・シモンズ氏には「5年間追放」の処分を発表した。08年マレーシアGPでドライバーとして最終的に自分からクラッシュ行為を実行したN・ピケには訴追免除措置がとられ、事実上「無罪」とされ、結論としてブリアトーレ“被告”がすべての責任を取らされるかっこうになった。

この結果、ブリアトーレ氏を“マフィア”呼ばわりするメディアまで出てきて、一方の当事者、内部告発に踏み切ったピケは親分の命令に従ったいたいけで“忠実な部下”に仕立てられ、クラッシュ行為を指示したシモンズ氏は“陰謀指揮者”とされている。善玉と悪玉が見事に強調され、ルノー・チームは(F・アロンソまで含めて)とんでもないダーティーな組織集団になってしまったのである。

話を正確に期するために、時間を1年前に戻そう。
アロンソが11位からピットインしたのは12周目だ。軽い燃料で予選15位からアグレッシブな戦略を選んだのはそれまでにもあったこと。一方16位にいたピケが問題のスピンをしたのはその2周後の14周目、ここでセーフティーカーが導入された。やがて17周目にピットレーン・オープン、焦ったフェラーリ・チームはマッサの給油がまだ終わっていないのに発進させるミスを犯し、ホースを引きずったまま出口で立ち往生。このアクシデントによって優勝のチャンスを逸した。つまり、フェラーリのV逸は今回の問題とは関係ない、彼らのまったく失態によるものに他ならない。

19周目にセーフティーカーが去ってレース再開。このとき、アロンソはまだ5位にいた。ポジションを上げられたのは確かでも、勝てる状況にはなかった。しかしその後のレース展開において彼のルノーは最速ラップ3位相当で追い込み、再度セーフティーカーが導入された結果、優勝を成し遂げることができたのである。つまり、ピケの“故意クラッシュ”が即アロンソ優勝に結びついたとは言えないということだ。

現象とすれば確かにピケが呼び込んだ最初のセーフティーカーによって彼らはチャンスをつかんだ。それは否定できない。だが繰り返しになるがそれで優勝に直結したという今回の報道、談話、証言は事実とはかなり異なる。

もうひとつ、あのピケのスピン行為だが僕も現場にいて「ちょっと不思議な動きのスピンだな…」と感じたことは事実だ。ただ彼はF1ドライバーとしては珍しい、アクセルオンの初歩的なミス(大変失礼だが)をして、ああいう“巻き込みスピン”をしばしばするタイプで、「ああ、またやったか」というぐらいにしか僕の目には映らなかった。
また、あの17コーナーにマシン撤去用のクレーンが無かったことについて、リークされたFIA調書では、事前に下見したシモンズ氏がそれに気付き、陰謀を図ったかのように表現されているが、シモンズ氏でなくても初コースを歩いて下見をした人間なら、あの位置にクレーンがなかったことは誰でも知っていることだ。僕は深夜、彼とエンジニアたちが歩いて下見しているのをたまたま目撃しているが、これはF1チームにとってはごく普通の行為で、わざわざ陰謀を図るためにコースを下見したという見解には無理がある。

一方、ピケのスピンについて、レーシングドライバーならばスピンターンの一つや二つ、ドーナツターンの連続くらいは、一般路上での“縦列駐車”よりも簡単にできることも事実だ。実際、M・シューマッハがイギリスGP予選で故意にフェラーリをスピンさせてタイムロスを誘発させたこともあった(しかしペナルティー大問題にはならず…)。

そうした中で、言われるようにピケが“任務”を忠実に遂行したとしたら、その理由はなぜなのか。ブリアトーレ氏から“契約”をちらつかされ、レーシングドライバーたるプライドをかなぐり捨て、わざとスピンしたとすれば彼は本当にもう1年、F1に居られると思ったのだろうか。すでにあの時点で彼はアロンソとの実力差を身にしみるほど深く分かっていたはずだ。故意にスピンした瞬間に自分自身のレース人生がぶち壊しになると悟らなかったのだろうか。また最近の発言では父ネルソン・ピケも、昨年から息子のこの問題にかかわっていたようだが、世界チャンピオンに3回もなったほどの父親が、そこまで追い詰められていた息子になぜ冷静なアドバイスができなかったのか、その点にも疑問が残る。

父ピケさんとはホンダ時代からのなじみがある。今年、なぜか彼はルノーのモーターホームには寄りつかずBSのところでよく出会った。が、ピケさんはいつも考え込んでばかりいて、挨拶のハローもない。暗いネルソンを見るにつけいったいどうしたのかとずっと気になっていた。今にして思えば、昨年から息子のこの問題にかかわっていた彼は、何かをずっと考え思い悩み沈んでいたのだろう。
91年末に引退宣言することもなく、ベネトン・チームにやってきたばかりのブリアトーレ氏によって追われたトリプルチャンピオン。その無念の想いは確かに察して余りあるものなのだが(ピケの後にシューマッハがエースになったのは92年からのことである)。

ピケ対ブリアトーレ。また、もしブリアトーレ対M・モズレイの“個人的私憤”がこの大スキャンダルに絡み合っていたとしたならばもっと違うやり方、男らしい殴り合いの決闘こそがふさわしい。2009年F1はどこまでこういう語るに落ちるスキャンダルを繰り返すのか、もういい加減にしてほしい。

真相はいずれ明らかにされるだろう。しかしいまは何よりもこの60周年チャンピオンシップに集中すべきときだ。ゲーム・イズ・オーバー、もうスキャンダルはいらない--。

2009年09月11日

ヨーロッパ大移動2連戦、ベテラン勢の活躍に波乱の終盤を実感

体感温度40℃のスペイン・バレンシアからパリを経由して1,600km離れたベルギーのスパ・フランコルシャンへ。第11戦ヨーロッパGPから第12戦ベルギーGPへと続いた2連戦は、今までにない過酷さを体験したヨーロッパ大移動だった。サーキットのあるスパ・フランコルシャン地方は、海沿いからアルデンヌの山の中へと移るので、ある程度予想はしていたものの、まさか摂氏4℃以下(!)の寒さになるとは……。スペインでは冷たい“ガスパチョ”に感激していたのに、ここではレストランで飲む一杯のホットスープにぬくもりを感じたほどだった。

F1スポーツに係るものにとって、事態が瞬時に変化することに驚いていてはいけない。僕はいつもそう思って取材現場に臨んでいる。しかしこの2連戦、ヨーロッパGPでは、あのR・バリチェロ(ブラウンGP)が“別人”に変身して勝ち、ハンガリーGPでは、密かに期待していたG・フィジケラ(フォース・インディア)がPP(ポールポジション)を獲得、そしてスタートでの接触事故によるセーフティカー導入がなければ、勝っていたかもしれないレースを目の当たりにして、そんな思いもどこかへ行ってしまったかのように驚いた。

何が二人を変えたのか。
答えは第10戦ハンガリーGPの公式予選中の事故で頭部を負傷したフェラーリのフェリペ・マッサ(現在、リハビリ中)の存在抜きには考えられない。
バレンシアでのバリチェロの走りは、初日のフリー走行でコース脇2mまで接近して見ていたが“別人”ではないかと思うほどブレーキングも、ライントレースもスムーズだった。
あとで確認できたことだが、バリチェロはいまだに左足ブレーキングで、いまや常識の右足ブレーキングに変更せず通しているという。そんなバリチェロに昨年バレンシアで完勝したマッサは、その走りでバレンシア攻略のヒントを与え、バリチェロはこの年(F1デビューは1993年)になってようやく一皮むけたとしたら……。あの事故の“加害者”でもあるバリチェロの5年ぶりの優勝にそんな思いが湧き上がってきた。

同世代のフィジケラがバリチェロの優勝を誰よりも刺激的に受け止めていたのは、スパの初日にすれ違ったときに分かった。いつものようにへらへらとした様子がなく、表情が引き締まっていた。案の定、初日フリー走行1では急にスパ・ウェザーになり、スタブロー・コーナー方面から雨がサーっと降ってきたが、フィジケラはいきなりウェットになったにもかかわらずノーセットアップのままで最速タイム2分3秒972を叩き出し、トップに立った。イニシャルセットが抜群で、実際にコース上では完璧なバランスだった。
記録上はドライ状態のときにJ・トゥルーリ(トヨタ)が記録した1分49秒675がトップタイムとなったが、僕は「フィジケラをマーク」と取材メモに書き込んだ。

結局、ベルギーGPはウイナーは、スタートでフィジケラを交したフェラーリのK・ライコネンとなったが、2位表彰台に上がったフィジケラも、フェラーリの真後ろから後方乱気流を浴びながらも追い続け、スピン寸前のドライビングを見せてくれた。50m離れれば楽に着いて行けるのに、彼は“レーサー”としてどこかにチャンスがないかとアタックを続けたのだ。それを跳ね除けたライコネンも、この12戦までのベストレースを見せてくれ、「このレースのウイナーは一人ではない。彼ら二人だ」と思わせてくれた。

それほど強烈な印象を残したフィジケラの激走だったが、レース後9月3日にはフェラーリから、マッサに変わるドライバーとして、第13戦イタリアGPからフィジケラを起用するとの正式発表があった。フォース・インディアから電撃移籍しての大抜擢である。イタリアンドライバーとしては90年代のI・カペリ、80年代の故M・アルボレート以来となる。非常に残念ながら、ジャパニーズドライバーの佐藤琢磨はフィジケラに“敗れた”が、まだまだ鈴鹿・日本GPまで何が起きるか分からない。09年シーズンは<予測不能>な事態があまりに多いからだ。チャンピオンシップも予想通り終盤もつれる状況になっている。鈴鹿・日本GPがクライマックスとなる気配は、いよいよ濃厚になってきた。

2009年08月06日

満員御礼申し上げます

満員御礼申し上げます。

8月8日の「第9回クロストークイベント」は、おかげさまで全席ソールドアウトとなりました。スタッフ一同、心より御礼申し上げます。7月10日にエントリーを受付開始したところ、スタートダッシュすばやく二日間で100組以上のF1 LOVRRS皆様が申し込まれていままでよりも早くにフルグリッドになりました。今回間に合わなかった方々すいません、次の“第10回記念イベント”をお待ちください。

開催告知した時点で僕自身にもいくつかニュースが飛び出す予感はあったのですが、状況変動は非常に烈しく、今シーズンはこれから「揺れる2009年後半戦」に突入です。イベント当日までにまだ最新ビッグニュースがあるかもしれませんので、当日はトーク内容の変更もありえます、ご了承下さい。

レギュラーゲストBS社の浜島氏には、いま世界中が最も気になっている<シューマッハ復帰>に関する詳細情報トーク(?)などを語っていただく予定です。実はハンガリーGPで浜島氏と雑談中に、たまたまシューマッハ氏が通りかかったこともあり「ちょっと太ったね、ミハエルも」と彼のことを語り合ったばかりだったのですが、その時点ではまさかこんな事態になろうとは、ふたりとも想像すらしていませんでした。そういう意味では、まさにジャストタイミングの浜島情報となるでしょう。

なおイベント当日はいつものように軽食と飲み物の用意もありますが、元気の出る“おみやげドリク”が、参加者全員にもれなく用意されるようです。こちらもお楽しみに。
それでは盛夏の日、ホテル・フロラシオン青山でお会いしましょう。

今宮 純

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