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2009年09月 アーカイブ

2009年09月11日

ヨーロッパ大移動2連戦、ベテラン勢の活躍に波乱の終盤を実感

体感温度40℃のスペイン・バレンシアからパリを経由して1,600km離れたベルギーのスパ・フランコルシャンへ。第11戦ヨーロッパGPから第12戦ベルギーGPへと続いた2連戦は、今までにない過酷さを体験したヨーロッパ大移動だった。サーキットのあるスパ・フランコルシャン地方は、海沿いからアルデンヌの山の中へと移るので、ある程度予想はしていたものの、まさか摂氏4℃以下(!)の寒さになるとは……。スペインでは冷たい“ガスパチョ”に感激していたのに、ここではレストランで飲む一杯のホットスープにぬくもりを感じたほどだった。

F1スポーツに係るものにとって、事態が瞬時に変化することに驚いていてはいけない。僕はいつもそう思って取材現場に臨んでいる。しかしこの2連戦、ヨーロッパGPでは、あのR・バリチェロ(ブラウンGP)が“別人”に変身して勝ち、ハンガリーGPでは、密かに期待していたG・フィジケラ(フォース・インディア)がPP(ポールポジション)を獲得、そしてスタートでの接触事故によるセーフティカー導入がなければ、勝っていたかもしれないレースを目の当たりにして、そんな思いもどこかへ行ってしまったかのように驚いた。

何が二人を変えたのか。
答えは第10戦ハンガリーGPの公式予選中の事故で頭部を負傷したフェラーリのフェリペ・マッサ(現在、リハビリ中)の存在抜きには考えられない。
バレンシアでのバリチェロの走りは、初日のフリー走行でコース脇2mまで接近して見ていたが“別人”ではないかと思うほどブレーキングも、ライントレースもスムーズだった。
あとで確認できたことだが、バリチェロはいまだに左足ブレーキングで、いまや常識の右足ブレーキングに変更せず通しているという。そんなバリチェロに昨年バレンシアで完勝したマッサは、その走りでバレンシア攻略のヒントを与え、バリチェロはこの年(F1デビューは1993年)になってようやく一皮むけたとしたら……。あの事故の“加害者”でもあるバリチェロの5年ぶりの優勝にそんな思いが湧き上がってきた。

同世代のフィジケラがバリチェロの優勝を誰よりも刺激的に受け止めていたのは、スパの初日にすれ違ったときに分かった。いつものようにへらへらとした様子がなく、表情が引き締まっていた。案の定、初日フリー走行1では急にスパ・ウェザーになり、スタブロー・コーナー方面から雨がサーっと降ってきたが、フィジケラはいきなりウェットになったにもかかわらずノーセットアップのままで最速タイム2分3秒972を叩き出し、トップに立った。イニシャルセットが抜群で、実際にコース上では完璧なバランスだった。
記録上はドライ状態のときにJ・トゥルーリ(トヨタ)が記録した1分49秒675がトップタイムとなったが、僕は「フィジケラをマーク」と取材メモに書き込んだ。

結局、ベルギーGPはウイナーは、スタートでフィジケラを交したフェラーリのK・ライコネンとなったが、2位表彰台に上がったフィジケラも、フェラーリの真後ろから後方乱気流を浴びながらも追い続け、スピン寸前のドライビングを見せてくれた。50m離れれば楽に着いて行けるのに、彼は“レーサー”としてどこかにチャンスがないかとアタックを続けたのだ。それを跳ね除けたライコネンも、この12戦までのベストレースを見せてくれ、「このレースのウイナーは一人ではない。彼ら二人だ」と思わせてくれた。

それほど強烈な印象を残したフィジケラの激走だったが、レース後9月3日にはフェラーリから、マッサに変わるドライバーとして、第13戦イタリアGPからフィジケラを起用するとの正式発表があった。フォース・インディアから電撃移籍しての大抜擢である。イタリアンドライバーとしては90年代のI・カペリ、80年代の故M・アルボレート以来となる。非常に残念ながら、ジャパニーズドライバーの佐藤琢磨はフィジケラに“敗れた”が、まだまだ鈴鹿・日本GPまで何が起きるか分からない。09年シーズンは<予測不能>な事態があまりに多いからだ。チャンピオンシップも予想通り終盤もつれる状況になっている。鈴鹿・日本GPがクライマックスとなる気配は、いよいよ濃厚になってきた。

2009年09月30日

特別寄稿 ルノーの2年間猶予付き資格停止処分について

大いに意義ありの幕引きだった。
史上初の夜間開催となった昨年のシンガポールGP決勝、ルノー・チームのN・ピケJr.がレース中に起したクラッシュについて、8月にチームを解雇されたピケがFIA(国際自動車連盟)に事故は故意だったと告白。同僚のF・アロンソが絶好のタイミングでセーフティーカーが入ったことで優勝したことから、チームの意図的な不正行為が疑われた問題について、9月21日に開かれた世界モータースポーツ評議会は、わずか90分足らずの“審議”でルノー・チームには執行猶予付の「2年間出場停止処分」、前マネージングディレクターのF・ブリアト―レ氏にはFIAが関与する競技からの「無期限追放」、不正行為を指示したと言われる前エクゼクティブディレクター・オブ・エンジニアリングのP・シモンズ氏には「5年間追放」の処分を発表した。08年マレーシアGPでドライバーとして最終的に自分からクラッシュ行為を実行したN・ピケには訴追免除措置がとられ、事実上「無罪」とされ、結論としてブリアトーレ“被告”がすべての責任を取らされるかっこうになった。

この結果、ブリアトーレ氏を“マフィア”呼ばわりするメディアまで出てきて、一方の当事者、内部告発に踏み切ったピケは親分の命令に従ったいたいけで“忠実な部下”に仕立てられ、クラッシュ行為を指示したシモンズ氏は“陰謀指揮者”とされている。善玉と悪玉が見事に強調され、ルノー・チームは(F・アロンソまで含めて)とんでもないダーティーな組織集団になってしまったのである。

話を正確に期するために、時間を1年前に戻そう。
アロンソが11位からピットインしたのは12周目だ。軽い燃料で予選15位からアグレッシブな戦略を選んだのはそれまでにもあったこと。一方16位にいたピケが問題のスピンをしたのはその2周後の14周目、ここでセーフティーカーが導入された。やがて17周目にピットレーン・オープン、焦ったフェラーリ・チームはマッサの給油がまだ終わっていないのに発進させるミスを犯し、ホースを引きずったまま出口で立ち往生。このアクシデントによって優勝のチャンスを逸した。つまり、フェラーリのV逸は今回の問題とは関係ない、彼らのまったく失態によるものに他ならない。

19周目にセーフティーカーが去ってレース再開。このとき、アロンソはまだ5位にいた。ポジションを上げられたのは確かでも、勝てる状況にはなかった。しかしその後のレース展開において彼のルノーは最速ラップ3位相当で追い込み、再度セーフティーカーが導入された結果、優勝を成し遂げることができたのである。つまり、ピケの“故意クラッシュ”が即アロンソ優勝に結びついたとは言えないということだ。

現象とすれば確かにピケが呼び込んだ最初のセーフティーカーによって彼らはチャンスをつかんだ。それは否定できない。だが繰り返しになるがそれで優勝に直結したという今回の報道、談話、証言は事実とはかなり異なる。

もうひとつ、あのピケのスピン行為だが僕も現場にいて「ちょっと不思議な動きのスピンだな…」と感じたことは事実だ。ただ彼はF1ドライバーとしては珍しい、アクセルオンの初歩的なミス(大変失礼だが)をして、ああいう“巻き込みスピン”をしばしばするタイプで、「ああ、またやったか」というぐらいにしか僕の目には映らなかった。
また、あの17コーナーにマシン撤去用のクレーンが無かったことについて、リークされたFIA調書では、事前に下見したシモンズ氏がそれに気付き、陰謀を図ったかのように表現されているが、シモンズ氏でなくても初コースを歩いて下見をした人間なら、あの位置にクレーンがなかったことは誰でも知っていることだ。僕は深夜、彼とエンジニアたちが歩いて下見しているのをたまたま目撃しているが、これはF1チームにとってはごく普通の行為で、わざわざ陰謀を図るためにコースを下見したという見解には無理がある。

一方、ピケのスピンについて、レーシングドライバーならばスピンターンの一つや二つ、ドーナツターンの連続くらいは、一般路上での“縦列駐車”よりも簡単にできることも事実だ。実際、M・シューマッハがイギリスGP予選で故意にフェラーリをスピンさせてタイムロスを誘発させたこともあった(しかしペナルティー大問題にはならず…)。

そうした中で、言われるようにピケが“任務”を忠実に遂行したとしたら、その理由はなぜなのか。ブリアトーレ氏から“契約”をちらつかされ、レーシングドライバーたるプライドをかなぐり捨て、わざとスピンしたとすれば彼は本当にもう1年、F1に居られると思ったのだろうか。すでにあの時点で彼はアロンソとの実力差を身にしみるほど深く分かっていたはずだ。故意にスピンした瞬間に自分自身のレース人生がぶち壊しになると悟らなかったのだろうか。また最近の発言では父ネルソン・ピケも、昨年から息子のこの問題にかかわっていたようだが、世界チャンピオンに3回もなったほどの父親が、そこまで追い詰められていた息子になぜ冷静なアドバイスができなかったのか、その点にも疑問が残る。

父ピケさんとはホンダ時代からのなじみがある。今年、なぜか彼はルノーのモーターホームには寄りつかずBSのところでよく出会った。が、ピケさんはいつも考え込んでばかりいて、挨拶のハローもない。暗いネルソンを見るにつけいったいどうしたのかとずっと気になっていた。今にして思えば、昨年から息子のこの問題にかかわっていた彼は、何かをずっと考え思い悩み沈んでいたのだろう。
91年末に引退宣言することもなく、ベネトン・チームにやってきたばかりのブリアトーレ氏によって追われたトリプルチャンピオン。その無念の想いは確かに察して余りあるものなのだが(ピケの後にシューマッハがエースになったのは92年からのことである)。

ピケ対ブリアトーレ。また、もしブリアトーレ対M・モズレイの“個人的私憤”がこの大スキャンダルに絡み合っていたとしたならばもっと違うやり方、男らしい殴り合いの決闘こそがふさわしい。2009年F1はどこまでこういう語るに落ちるスキャンダルを繰り返すのか、もういい加減にしてほしい。

真相はいずれ明らかにされるだろう。しかしいまは何よりもこの60周年チャンピオンシップに集中すべきときだ。ゲーム・イズ・オーバー、もうスキャンダルはいらない--。

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