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2009年11月 アーカイブ

2009年11月13日

トヨタもBSも現場スタッフは心で泣いたアブダビ最終戦

みんな顔で笑って心は泣いていた――。最終戦アブダビGPの現場に居たBSスタッフ、またトヨタ(TMG)スタッフは<決断の時>が来たことをかみ締めながらも、それを心の奥底に閉じ込めながら09年最後の仕事に集中しようとしていた。

現場でのことを伝えよう。
11月1日、午前11時からトヨタ・チームは僕が泊まっていたホテルのすぐ隣にあるホテル内ペルシャ料理店で、取材関係者を招いて“ブランチの集い”を開いた。ドライバーは来ず、日本人チーム首脳陣と本社モータースポーツ推進室員だけが顔を揃え、今シーズンの取材御礼の挨拶が述べられたが、それ以上来季にまつわる話は一切出なかった。つまり彼らは何も言えないし、この場では何も聞いてくれるなということだと、僕は受け取った。
「やっぱりそうか――」。当たり障りのない雑談時間だけが流れる中で、食欲など出るはずもなかったが、半徹夜になる決勝日だから少しでも食べておかなければと小さなオムレツとクロワッサンを一つ摘んだだけで、もうサーキットへ行かなければと、照り付ける35℃の日差しを浴びながら車で5分のヤスマリーナ・サーキットに向かった。

午後1時からはパドックのBSチームオフィス内で浜島氏によるいつもの“タイヤトーク・セッション”が始まった。毎戦金曜と日曜に2度行われるもので、主にデータ確認とQ&Aがあって15分程度で終わる。この日も全くいつもどおりにミーティングは進み、散会した。しかしこの日の昼(レーススタートは夕方5時)にBS首脳スタッフは全チームに出向き、現行タイヤ供給契約を10年まで全うしたあと、次の契約はしない旨を伝えていたという。もちろんこの段階ではシークレットだが、BS首脳が直接出向いて現場担当者に話すのは、この世界にいるものとしての礼儀であり、モータースポーツマンとしては当然の振る舞いだと思う。

スタートまでの時間がとても長く感じられた。
資料整理やいろいろデータチェックしながらも、トヨタとBSの2010年に関して、ひいては<日本の将来F1アクティビティー>に向けて、最終戦のCS生中継で何を言うべきか、何を言うべきではないか、自問自答を繰り返したが、結局、いつものようにレースに徹したスタンスでいくことに決めた(まだ何も正式には発表されていないのだから)。たぶん来週一気にすべてが明るみに出て日本国内で大騒ぎになるだろうが、今この時点でことさら“スクープ”にはやり、テレビでぺらぺらしゃべるのは控えよう。それが僕の下した結論だった。

チャンピオン決定後ではあっても面白いレースが快走L・ハミルトンによって始まり、S・ベッテルが渾身のドライビングで食い下がって逆転、何とか新王者J・バトンもM・ウェバーと終盤に見せ場を演じながら、09年シーズンにふさわしい顔ぶれ3人が表彰台に立った。まあこれはこれでよしとしよう。

戦い終えて日が暮れて、取材を終えた最後にパドック一番奥にあるBSを個人的に尋ねた。今年最後だからあらためて「お疲れさま」というのがマナーだろう。仕事中だったのに浜島氏が一人で合間を縫って出てきてくれて、いくつか雑談話をしていると急に彼が涙ぐんだ様子でF1参戦からの昔話をし始めた。こちらはそういうつもりはなかったのだが、この日のレースのこととは関係なく、ミシュランとの“タイヤ戦争”やマイケル・シューマッハがいた時代に話題が飛んでいった。
「誰にも最終戦って、いろいろ頭をよぎることがあるよね」
BS社内で次期F1契約更新が難しい状況にきているのは、自分なりに感触は得ていた(関係者に迷惑をかけてはいけないので、あくまでもこれは“個人的な判断に基づいた感触”と断っておくが)。その通り彼らは来季シーズン、新たなタイヤレギュレーションに則った10年用タイヤを開発し、1年間規定に従った活動したうえでF1を去るという手順を踏んだ撤退であることを発表した。

一方トヨタ社内情勢はもっとずっと複雑なようだった。内外でさまざまな撤退報道が繰り返されるたびに、むしろ現場スタッフ側は結束力を強め、TMG海外部隊はやる気に燃えていたように僕には見えた。実際にいいレースが続きシンガポールGPではT・グロックが2位、日本GPでもJ・トゥルーリが2位と結果にはっきり現れ、ブラジルGPでは抜擢されたルーキー小林可夢偉が大健闘9位(日本人歴代2位タイ記録)、参戦8年目で初めて日本人ドライバーが戦う日本の“トヨタF1”の存在がアピールされた。
しかし、もう時既に遅しだった――。
表現はよくないかもしれないが、2戦目の小林の表情は“神風特攻隊員”さながらだった。口数も少なくなって、常に思いつめていた。
「人生がこれで決まる、いや終わるかもしれない」。
英国艦隊の最強戦艦ブラウン・バトンに駆逐艦豊田で挑んでいったコバヤシ、失礼を承知で言わせてもらえば力が違いすぎる相手である。それでも彼はお国(トヨタ帝国)のために捨て身で出撃していった。出撃できる機会を現場の司令長官が設けてくれたからには、それに報い自分の未来をこの一瞬に賭けるしかなかった。
「あまり無理はするなよ」とは戦士に向かって言う言葉ではない。ブラジルGPで彼が9位で“生還”したとき、僕は「オツカレサマデシタ」というねぎらいの言葉を本人にかけるのがやっとだった。すると朗らかに笑うコバヤシは「ここで待っていてくださいね、僕、コーヒーをいれて持ってきますから」と、ホスピタリティーの女性に命令せずわざわざ自分で運んできてくれた。敬礼しながら僕はいただいた。
アブダビでは夕飯をまともに食べる時間さえ彼にはなかったことを知っている。新人の彼は土曜夜9時からのプロモーションイベントにまで引きずり回され、アスリートとしての節制など心がける暇もなかった。出撃前夜の特攻隊員に礼を尽くさず、見事敵艦轟沈してからよくやったと肩を叩かれ、挙句に「もう帝国は無条件降伏したからね」と言われたら、二等兵は無念さを飲み込み押し黙るしかないだろう。

現場指揮官はアブダビ直後に開かれた東京の「撤退記者会見」で涙したらしい。僕はまだアブダビ取材から戻れずヨーロッパに居て会場内の状況は知らないが、そのシーンは世界中のTVニュースに流れた。しかし、トヨタF1関連の話題が02年の参戦以降、これほど国際的なビッグニュースになったのは、若き日本人ドライバーに“カミカゼ攻撃”させながら、2010年新コンコルド協定に調印しながら、ここで<無条件降伏>した“大日本クルマ帝国”の判断に、世界のメディアがマカ不可思議なものを感じ取ったからに他ならないということを忘れてはならない。

100年の自動車産業史に燦然と輝く世界一の企業が8年間、フェラーリ以上の数千億円を浪費しながらも1勝すらできなかったという事実を、日本のマスコミは「昨今の経済事情悪化」を理由に“金食い虫のF1活動は辞める”という彼らの文言だけを鵜呑みにせずに、しっかりと報じるべきだ。
あれだけの予算があればトヨタはとっくにワールドチャンピオンになってしかるべきであり、勝てなかった5年で辞めるか、ほかの選択肢を選ぶべきだった。
モータースポーツに「改善主義」は通用しない。必要なのはその都度の思い切った「改革」である。140戦して1勝もできず、中途半端に無条件降伏したトヨタは、自動車メーカーとして歴史にその名を永遠にとどめるだろう。
それがとても悔しい。1年前のH社敗退のときよりもっとニッポンは恥をかいた。

2009年11月29日

トヨタF1最後の日に、日本の「F1力」のことを思った。

トヨタと富士スピードウェイには我々も長くお世話になってきた。その感謝の意を表し、ここで公式的にF1が走る最後の場になるであろう「トヨタ モータースポーツ フェスティバル 2009(TMSF)」(11月22日)に、前日から2日間かけて赴いた。僕の09年最初のサーキット取材(1月ママチャリGP)も最後もここ、綺麗に白化粧したマウントフジを年に2度も眺めることができた。最終戦アブダビ帰りの自分としてはあらためてこのサーキットが持つ雄大さを感じたのだった。

夜は1℃で寒さに震えたけれど天気予報を覆して雨は御殿場あたりで止まり、22日イベント当日午後には晴れ間も出た。早朝から8時間も延々続いたイベントは正直言ってやや長すぎたがスタンドのファン2万8000人(公式発表)は最後まで楽しんでいたようだ。パドックでサインや写真撮影を頼まれたが中には、07年新富士・日本GPの公式プログラムをわざわざ持ってきた方もいて、彼らの“熱気”を感じた。

渋滞を避けルート246から小田厚経由、東名での帰り道で驚いたのは、明らかに富士帰りの地方ナンバーのトヨタ車が多かったことだ。皆さん全国からこの<トヨタF1最後の日>のために駆けつけたのだろう。何度か行ったこのイベントでこれほど見かけたことはない。僕は豊田社長にこういうところを、またあえて言えばホンダのI社長にも是非ご覧になっていただきたかった。
社内報告書データには上がってこない「庶民モータースポーツ感覚」の広がり。ボクシーやウイッシュに、誇らしげにTOYOTA・F1スティッカーを張っているワンボックスカーの若いお父さんたち……。トヨタは販売戦略として彼らを狙い、F1モータースポーツをやってこられたのではないのか。02年から8年かけてやっとここまできたのにそれがとても残念だ。

土曜21日に豊田社長がサーキットランを終えて、まるで小林カムイ少年のような笑顔でレキサス・マシンから降りてくるところを偶然目撃した。世界一速い社長の“素顔”だ。こんなにお好きな人があの決断をせざるを得なかった背景をもういっぺんよく考える必要があるだろう。
辞めるのではなく、辞めさせられたのではないのか――。

小林可夢偉君は金曜深夜までフジTV「スポルト」に生出演、その後、車で山中湖の宿に深夜移動。24時間営業コンビニを探しカツサンドを買い、食べてすぐにちょっとだけ寝て、朝からイベントリハーサルへ。相変わらず忙しい。J・トゥルーリもアメリカから土曜夜に成田到着、そのまま山中湖に入り、このトヨタF1ラストランに臨んだ。5年間苦楽をともにした彼としてはけじめをつけたかったのだろう。大会最後のフィナーレで最後までスタンドのファンに手を振り続ける彼の表情は感極まっていた。
もう一人のトヨタF1ドライバー、T・グロックはこのイベントにも来ていなかった。彼は17日に新チームのマノーと契約を発表、待ちきれずに決めてしまった感がある。ここは元シムテックで革新的マシンを設計したN・ワースが参戦準備を進めていて、彼ならば新興チームでベストなモノを作り出せると思う。が、資金力はショート気味でグロック自身がスポンサーを集めないと苦しい状況にある。もしそれがうまくいかないと、契約したとはいえグロックの立場が危うくなる可能性もありえよう。

小林と中嶋一貴の二人は“TDPマネージメント”の下にいて、2010年に向けて早い段階から水面下で担当者が交渉を重ねてきた。20日時点と断っておくが、事態はアブダビGP後からトヨタ撤退後に4転5転もしてきた。もう可能性はゼロになったが小林はマクラ―レンの候補リストに日本人として初めて名を連ねていた。検討が進み、チーム・スポンサー各社がアジアマーケットを調査、名門は慎重にリサーチをしていたのだが、J・バトン電撃移籍加入によって小林は弾かれた。世界があっと驚くマクラーレン日本人起用のかすかな可能性は消滅したのだった。

このTMSFイベント中に、あるフランス人に僕は初めて声をかけられた。実は彼の国のチームが小林に興味を示している。R・クビサは決定済みで、もう一人はグロックという報道が流れたがマノーに決まったのでシートが一つ空いたのである。そのシートに最近になってロシア系新人の動きが流れたのだが、R・グロジャンで懲りたルノーがまた実績のない新鋭起用に積極的になるとは思えない。その一方でルノーは資金体制面がまだ固まっていない。つまり、チーム・スポンサー交渉とリンクするようなドライバーが望ましい状況というわけだが、もし実績を示した小林に何らかの“サポート”があれば、彼の国のチームの候補リストの上位に一気に浮上していくのではないだろうか。

新興チームにはさまざまなドライバーの名が出ている。
カンポスはまずB・セナを10月31日に契約発表した。だが、有力候補P・デ・ラ・ロサがここにきて落ちたのは資金面がショートしたためで、事態はかなり変わってきている。ブラジル資金を当て込んだセナ起用も思惑が外れ、ドライバーラインナップが再検討されるかもしれない情勢にある。

一方、資金力はあるのが“マレーシア・ロータス”。M・ガスコインがマシン製作の指揮を取っていて、一人は確定したと報じられているのに名前が出てこない。トゥルーリだと書きまくるイギリス・メディアに対して、本人は「まだどことも契約に至ってはいない」と否定。ここに佐藤琢磨、中嶋らが候補として入り、他の新鋭や、経験者たちと“競合関係”にある。アメリカのUS・F1はチーム基盤が不透明なままで、具体的なドライバー交渉動向もはっきりしてなく、日本勢もよく見極めたほうがいいだろう。
 同様に不透明なのが元BMWのザウバー。FIAからエントリー承認を得られず、トヨタ撤退後に本来なら繰り上がって、着々と体制が進行していていてもおかしくないのに見えてこないのはなぜか。N・ハイドフェルドは長年の関係から確定でも、もうひとつのシートは“空白”だ。

創造力をたくましく“ドリームプラン”を考えてみようか。一切しがらみは抜きにして、もしザウバーとTMG、撤退したメーカーBMWとトヨタに代わりこの彼らが“合体”したとしたら……。
このプラン詳細は次回に続くとさせてもらう。もしこの間、明日にでもあっと驚くニュースが流れてもおかしくない今のF1ストーブリーグ界、小林も中嶋も、もちろん琢磨も3人とも僕はサポートしていく。何もしてやれないが彼らの夢の続きをバックアップする。たとえメーカーは消えても日本人の「F1力」は世界に負けてはいないのだから。


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