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2010年11月 アーカイブ

2010年11月01日

初の韓国GPは“マジカル・ミステリー・ツアー”だった!?

何が起きても不思議ではない、いや何も起きないほうが不思議だ。第17戦韓国GPへ向かう前日、そう覚悟した。今回は他では言えない、書けない、僕が見た、聞いた、感じたことをありのままに紹介するが、これは批判のための批判が目的ではないことをあらかじめ断っておく。

10月19日火曜日、15時35分の羽田旧国際線ターミナル発JAL便で、17時55分にギンポ空港到着。韓国大使館で取材ビザを認められていた僕は難なく初入国出来た(観光ならビザは不要)。日没後に未知の国をレンタカーで長距離移動するのは避け、その夜はソウル郊外のホテルに投宿。あとになってこの普通のビジネスホテルがいかに快適か、身をもって知ることになる。

水曜日昼に再びギンポ空港へ。ハーツ社の受付は国内線到着ターミナルにあり、親切なタクシードライバーが、携帯で連絡を取ってくれていたので、ここまではスムーズにいった。ヒュンダイ・アバンテというセダンを借り、リクエストしていたカーナビを装備してもらうが英語バージョンはないとのこと。そこで担当者にモッポ市内滞在ホテルへのルートを打ち込んでもらった。ここからはすべてハングル語。漢字もアルファベット(英語)も通用しないマジカル・ミステリー・ツアーの始まりである。

高速道路は日本よりも流れていて、カーナビの指示に従いながら360Kmを約4時間で。絶えず流れる音声ガイダンスを聞いていると「チョンマゲー…」で始まるおかしな言葉が耳につくが、速度違反監視カメラ位置などをいちいち教えてくれるので大いに助かった。「意外にいいじゃないか」とドライブ気分も出て、途中のサービスエリアではうどんを一杯食べる。結構いける味だった。
さあゴールのホテルはどこか? 指示に従いモッポ市内に入って、最後の角を曲がり、辿り着いたところは、いかにもというか正真正銘のせこ~いラブホテル。「まさかここ?」――。1泊200ドル以上、5泊しばりで合計10万円を既にエージェントに支払い済みで(期待はしていなかったけど)こんなところをあてがうとは。

いや違った。その隣が我々のホテルだった。ガレージに駐車してスーツケースを運びながらロビーに行くとそう、ここも紛れもないラブホテル。案内された部屋には椅子もなく旅の荷物を広げておくスペースもなく、ある目的を満たす“短時間滞在用”なのは明らか。赤っぽい室内照明であちこちにミラーがあって、TVは妙に大画面で窓のすぐ隣には「セクシーガール・バー」の看板がチカチカ。この辺りはモッポ市内でも有数の歓楽街(ラブスクエア)だというのを後で知った。

そうか、こういうことだったのか――。サーキット最終承認が10月12日ですべてがギリギリ、GP開催地としての付帯条件<ヨーロッパ様式のホテルを近隣にしかるべき部屋数確保すること>なんて主催者は無視というか、すべて超法規的な措置でやってしまう考え方で、国際自動車連盟もそれを認めたわけだ。べつにいいホテルに泊まりたいわけではなく、料金なりに普通であればそれでいいのだが、無性に腹が立ってきた。

この宿を経営する家族たちは事情を何も知らず、普段1泊2000円の部屋に泊まる、FIA招待のお客さんだと思っていたという。英国エージェントがその10倍の値段で我々に売り飛ばし、それをピンハネしているなんて彼らは全く理解できずに驚き、申し訳なさそうな顔で言った。
「エフワンって、取材される方にもそんなことをするのですか!? 1泊200ドルってソウルではシティーホテルのスイートルームの値段ですよ」。
次の日から部屋には新品タオルがふんだんに置かれ、怪しげな照明は普通色ライトに変えられ、インターネット通信環境もセットしてくれた。そして玄関には主催者から配布された「公式F1ホテル」の認証マークが貼られたのだった。

※余談の余談、我々が最初に間違えたもっともっと“ラブホテル”なところにはフェラーリ・チーム御一行が滞在、土曜日夜にばったりC・ダイヤ―達に会い、F・アロンソとF・マッサ専用のマセラーティもそこに駐車してあった。もちろん二人は唯一の普通のヒュンダイ・ホテルに滞在、でも彼らスタッフたちはこの環境で仕事に励んでいた。ちなみにマクラーレンやウイリアムズなど英国名門チームは、市内第2の普通のホテルに滞在、“ラブホ組”チームをさんざん冷やかしていたとか。
 
周辺状況がだいたいこれで理解してもらえたと思う。韓国GP主催者はF1がサッカーW杯やオリンピックと並ぶ世界イベントだと喧伝しながら、こんな程度で開催にこぎつけた。以前ならば開催90日前にコース承認されなければならない基本ルールも適用されず、完成したはずのF1規格合致KICサーキットを、木曜日に下見してまたびっくりだ。あたり一面が工事現場状態で仮設スタンドを建設中、僕の知る限りこれほどやっつけ仕事で強行開催するGPは見たことがない。

できたての舗装はまずまずのレベル、噂では日本の業者が手伝ったという(未確認)。しかし排水性は問題ありと木曜日時点で感じた。凹凸があちこちにあって、舗装表面がザラザラしていないので、もし雨が降ってきたらそこかしこに溜まるに違いない。週末の天候が日曜日まで何とかドライでもてばと祈ったが土曜日未明から雨、レースは水煙による“視界不良”で大混乱におちいっていく。

新築プレスルームはコースから離れた場所にあり、そこにいる限り外の様子がまるで分らない。あまり表に出てコースなどご覧にならない各国ジャーナリストはあの水煙も、夕闇迫る暗さも現場にいながらTV画面で眺めるしかなく、情況を把握できていなかったらしい。僕らはスタンド4階にある14番放送席にいたので、窓越しにあたりの情況を眺めつつ川井君はレーダー画面をチェック、分担しながら刻々変わる様子をできる限りお伝えしたつもりだ。

このコースは海沿いの湿地帯に作られた。基礎工事中に水が湧き出てそれで作業が遅れたのは容易に想像がつく。地盤が軟弱なためパドック内の一部は凹み、マンホールの蓋が隆起して夜に歩くときは躓かないよう注意しないと危ない。パドックを一歩出ると照明など一切ない漆黒の闇、月明かりを頼りに駐車場に行き自分の車を探さねばならなかった。日曜日はプレスルームを午前2時に退室、駐車場は雨でドロドロで足元をすくわれそうになった。転んだら泥まみれ、懐中電灯を持ってこなかった自分は甘かった。

スタートは午後3時、2時20分に放送席に入った。2時30分からルコネサンスラップ開始、アロンソは4周してウェットとインターミディエイトの2種類タイヤをチェック、とても慎重だった。2時45分、急に雨が強まった。「これでは3時スタートは無理」と直感するくらいの雨、昼にあった前座ツーリングカーレースは大荒れになって25分間で打ち切られ、その時よりもコンディションは悪化する一方だ。フォーミュラカーによる水煙はツーリングカーよりもひどくなる。吹き流してくれる風もなく(風速1m前後)、はたして10分遅れ3時10分にSCスタートとなる。

正しい判断だ。しかし1周、2周する間にスローペースでも前が見えない状況のため3時16分赤旗中断に。雨は一見小降りになってもいっこうに止まず、結局49分間待機したのち4時05分に再SCスタートとされた。2分40秒前後のラップでも相変わらず視界は悪い。放送席からも通過するマシンがかすんでよく見えない。55周レース終了より先に日没がくるのではないか、いやこのまま“パレード”で第1回韓国GPは打ち切られるのではないか。55周の75%、42周未満の場合はハーフポイントしか与えられない。そうなったら首位M・ウェバーは有利、追う側は勝っても25点ではなく“4位相当”の12,5点しか加算できないのだから。
こうした計算をレッドブル、ウェバーはいろいろ考え、今日は予選2位からとにかく守りで行こうという心理になっていった(彼らの表情からそれが読めた)。アロンソはそのウェバーと待機時間中に話をしながらも、しっかりとヘルメットのバイザーをセッティング。水煙のなか“曇り止め”対策をして視界を損なわないようにし、万一レースが長引き、夕暮れが来たときに備えて淡いカラーのものにした。西日が強いときは濃い目にするが今日はその必要はない。このように彼は準備万端で決戦に向かっていった。

12コーナーでのウェバーのスピンは完全にミスだった。あのコーナーは逆バンクがきつく、プッシュするとテールが流れる難所になると下見中にも見て取れた。ウェバーは1位ベッテルに離され3位アロンソに追われ、プッシュしすぎた瞬間に濡れた縁石にはみ出た。ドライであれば彼のレッドブルは粘り、アクセルオンのままコースに戻れたと思う。だがウェットレースでのこのミスは致命的、後続アロンソはこれを避けたがロズベルグは“道ずれ”にされてしまい、表彰台チャンスを逸した。上位5人のなかではウェットレース優勝経験がないのはウェバーだけ、僕はそれが引っかかっていた。彼のアクセルオン走法はウェットではリスキーな部分があり、それが現実となったのだ--。

雨でスローペースラン、エンジン全開率は大幅ダウン、なのにベッテルの8基目ルノー・エンジンは完全に壊れた。とても不思議だ。推定1,600km走行ではまだ限界が来るはずはなく(約2,000kmマイレッジ可能)、その使用法やチームの管理に問題があったのではないか。一つ言えるのは2位アロンソとの攻防でベッテルはトラブル寸前にスパートをかけていて、追ってくるアロンソに対し、ややエンジンにむちを入れていた。とはいえそれで致命傷になるとは、過去2戦でよほど“酷使”された後遺症が突如出たのかもしれない。
独走態勢になったアロンソ、ところが暗くなったコースで彼だけが1分51秒台というドライの10秒落ちタイムでゴール寸前まで走った。これは1位ベッテルを追っていた時よりも速く、このペースからは、もしベッテルにトラブルがなかったとしても、アロンソは終盤に仕掛けて抜いた可能性がある。予選一発スピードでは劣っても彼のフェラーリには実戦スピードがあるという“証明”に他ならない。
――勝つべくして勝たねばならないドライバー決戦を獲った韓国GPであった。

一夜明ければ青天、月曜日昼過ぎに再びカーナビを宿の主人と近所のヒュンダイ・ディーラーに行き、ギンポ空港までセットしてもらって帰路についた。
「お元気で」--。そう日本語で言いながら丁寧にお辞儀をして見送ってくれたご主人、二度と泊まるものかと思っていたが、彼らにはなんら責任はない。韓国内マスメディアはさまざまな混乱を起こした主催者を批判し、「インフラ設備等、滞在周辺環境などは国の恥だった」と報じた。2年目に進歩がなければこのGPにいくことを自分は勧めない。

2010年11月27日

最終戦アブダビGP「ベッテル・アロンソ対決、勝利を分けたものは」

祝S・ベッテル・初タイトル獲得――。
8ヶ月に及ぶ最近では最も長かったシーズンに、23歳の青年は耐えがたきを耐え最終決戦に勝ち、チャンピオンシップ・ポイント256点として7位にとどまったF・アロンソ252点を逆転した――。最終戦は遮二無二スピードで勝負したレースだった。戦略云々など関係なし、コース上でのドライビングによる分かりやすい決め方。このスポーツの原点「速いもの勝ち」を絵にかいたようなシンプルさ、F1は本来、こういう“ドライバーズ・チャンピオンシップ”であるべきだと思った。

終盤6戦はベッテルとアロンソしか勝者はいない。3勝対3勝、終盤戦は二人による事実上の“対決”となっていたのである。得点上はM・ウェバーがランク2位にいたものの、この6戦は一度もチームメイトより前でフィニッシュすることができず、最速コンストラクターズ・チャンピオンマシンにまたがるセカンドドライバーと言わざるを得ない状況が続いていた。その葛藤、心労、ストレスは臨界点に達し、インテルラゴスでは終始表情が厳しく、アブダビでも近寄りがたい雰囲気を漂わせ、身内のものとずっと一緒に行動していた。とても人前に出て話せる心理状態ではなかったのだ(すべてインタビューは拒否したと聞く)。
「これではベストプレーは望めない」――。最終決戦4人対決でここまで来たが、現場で見るウェバーの様子はもはや“崩壊寸前”に感じられた。戦う前の闘いに自ら敗れていった、と言ってもいいだろう。

事前にさまざまな“チャンピオン予想”が乱れ飛び、最終戦ポイントリーダーで臨むアロンソが条件的に絶対有利という見方が大半を占めた。何百パターンもあるレース展開のなかで、データ上、2位に8点アドバンテージを持つ立場だった彼は、攻めなくとも、守備的ゲームで十分に<V条件>を満たせる余裕が存在したからだ。
しかし、アロンソはアブダビまで大挙出張してきたスペイン報道陣(その数は過去最多)に対し、母国語で冷静なコメントを繰り返した。「この状況は(首位にあっても)前から何も変わっていない。最速レッドブルに乗るドライバーを倒すのは相当に困難なことだ。やってみないと全くわからない」。自分が有利とは言わず、熱くなる周囲を哲学者のような表情で戒めたアロンソ…、僕は05年、06年のM・シューマッハとの決戦を思い出し、「あの時よりもっと苦しい立場いることをクールに実感しているな」と、彼の表情を読み取った。

その彼と土曜深夜11時半過ぎに、ばったりと出会った。ヤス・マリーナ・ホテル周辺はアラブの王様たちのVIPカーで大渋滞、その横をパドックから徒歩で汗だくになって移動していたら、渋滞の中に彼の“移動用マセラーティ”が閉じ込められていた。ロールスやベントレー、フェラーリに囲まれ、まるで決勝レースで“ペトロフ渋滞”にひっかかったようだった。アロンソはもう歩いていくからと左リアドアを開け、自分でトランクから荷物を出すと、とっととホテルに向かった。
夕食は既にパドック内のチームケータリングサービスで済ませていたのだろう。徒歩ならホテルまで3分とかからない目と鼻の距離だ。それなのに騒々しいホテル周辺の大混雑、大渋滞のなかにわざわざ彼をマセラーティで行かせたら“パニック”になるのは目に見えている。私服に着替えさせてバイクを1台用意してやればいいのに、こんなところにもチームオーガナイズ、いや段取りの悪さを僕は感じた。

名門といえども今のフェラーリ・スタッフたちは3年ぶりの決戦にすっかり浮足立ってしまった。今シーズン、たびたびチームワークで綻びを露呈してきたレッドブルのほうが最終戦に限っては逆に地に足つけた行動力を示した。要はその“違い”があの15周目、アロンソのピットストップの大失敗につながったのだ。ウェバーが本来の走りができず、19コーナーで右タイヤをヒットするなど乱れているのを察知すれば、集中的に彼だけマークするのではなく、1位ベッテルとの間に3台以上入れないよう、周囲の戦況をもっと警戒すべきだった(結果論ではなくて)。
このレースにベッテルが優勝しても256点、アロンソは4位に入れば258点でV条件を満たせる。だが5位だと256点で同点、2位と3位も同回数になり4位の回数が少ないアロンソは<F1競技規則第7条2項デッドヒート規定>によって敗れる――。そこを刻々変化する中で、チームは“安全保障対策”として留意する必要があった。

アブダビに来て予想以上に脅威となったのはマクラーレン・メルセデスとルノー、ともにエンジン面でローテーションに余裕があり惜しげもなくブン回してきた。やりくりしてきた最後のアロンソ・フェラーリは既に“1戦使用済みプラスα”のもの、走行時間距離が増えるにつれ実戦パワーの落ち方が急激になるのが今年のフェラーリの短所である。それがスタートダッシュから如実に現れた。何もミスはなかったのにアロンソはエンジン性能による3~4速アップでJ・バトンに置いて行かれた。極論をここで述べるなら「このダッシュでチャンピオンを失った」とさえ言える。

さらにピットアウト後、新人V・ペトロフを40周どうしても抜けなかったのは4~5~6~7速でスピードに欠け、スリップストリームにも入れなかったからで、低速エリアで追突寸前まで接近してもペトロフの後方乱流によってかえってバランスを崩していた。ただし、打つ手がたった一つだけあった。最も速度が落ちる地点を選びフロントウイング翼端板を軽くぶつけてタイヤをカット、相手を弾き飛ばして自分は生き残る最後の手段だ(誰とは言わないが皆さんはこの手を過去に使ってきた有名ドライバーを容易に想像できるだろう)。が、アロンソは弾き飛ばされても、飛ばしたことはいちどもないレーサーで、最後までロシアの新人にこうしたダーティープレーをこころみなかった。彼くらいのレベルならばやってやれないことはないのに、やらなかったのである。ゴール後のランでペトロフにあるポーズをしたのを責める見方があるらしいが、男として当然のアクション、あれをしなかったら××××だ。

2010年チャンピオンは、BS最後の年に一段とタイヤをより速く、さらに長く使えるドライバーに進化した。ベッテル担当者、BS現場主任エンジニア、もちろんF1を14年見てきた浜島氏もそれを認める。98年にBSが初のチャンピオンになったときのマクラーレンも、2010年の最後のシーズンにチャンピオンになったレッドブルも、ともにA・ニューウェイ氏が手掛けたマシンで、M・ハッキネンもベッテルも、このタイヤとの対話を通じてより速くなった点が共通している。その一方でアロンソは、とうとうBSでチャンピオンになれなかった。それも勝負の運というべきだろうか。

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